私は近藤富男先生に直接お目にかかったことがない。 在日同胞写真家の鄭世和(チョン·セファ)先生の紹介で、ライン(LINE)グループトークで会い、約2年間対話を交わしただけだ。 それでも近藤先生は私がこれまで遂行した3つのプロジェクトのために大きな助けをくれた。。
第一に崔承喜(チェ·スンヒ)研究だった。 近藤先生は私が日本の調査で発掘した1930年代の古文献資料の解釈を手伝ってくれた。 私が読めない部分を写真で撮って「ライン」文字で近藤先生に問い合わせれば大体24時間以内に答えてくれた。 特に崔承喜先生の名古屋公演についての文を書く時には近藤先生が大きな助けをくれた。
第二は在日朝鮮学校舞踊部に「舞踊靴」を送るキャンペーンだった。李仁珩(イ·インヒョン)先生と共に在日朝鮮学校舞踊部の学生たちに舞踊靴をプレゼントし始めたが、近藤富男先生と鄭世和先生か共に結成した青少年支援団体<チームアイ>の助けが絶対的だった。
<チームアイ>とは「子供(아이)」たちを「愛(ai)」として「見守る(eye)」チームという意味で、近藤先生が直接付けた名前だ。 韓中日米4ヵ国語の同音異義語を絶妙に組み合わせた素敵な名前だった。 その名前と趣旨が良かったので私たちの集まりも<チームアイ>と呼ぶことにした。
2021年11月に大阪で開かれた在日朝鮮学校近畿地域舞踊コンテストに近藤先生が直接参席して舞踊靴も伝達し激励の言葉もした。 舞踊靴プロジェクトは近藤先生と鄭世和先生の<ティムアイ>がいなかったら長く続かなくても、良い結果を出すこともできなかっただろう。
第三に、「宝塚朝鮮人追悼碑」の調査であった。 私が近藤先生に近づいたのは、この調査のおかげだった。 近藤先生は私に追悼碑の主人公たちの韓国縁故を調査してほしいと頼み、調査過程で激励と助けを惜しまなかった。
「宝塚朝鮮人追悼碑」は、宝塚切畑の長尾山麓に設けられた桜の園·親水広場に建てられた朝鮮人労働者を称える追悼碑である。 この碑には1910年代と1920年代に兵庫県水道工事と鉄道工事で事故で死亡した5人の朝鮮人名前が刻まれている。 金炳順(キム·ビョンスン)、張長守(チャン·ジャンス)、南益三(ナム·イクサム)、尹吉文(ユン·ギルムン)、吳伊根(オ·イグン)氏などがまさにその方々だ。 異なる時期に異なる工事で亡くなった方々を一緒に記憶するためにこの追悼碑が建てられたのは近藤先生の努力の結実だった。
近藤先生は在日朝鮮人地域史研究者の鄭鴻永(チョン·ホンヨン)先生と共にこの5人の犠牲者の死亡経緯を調査し記録として残す一方、その方々のための祭祀も行い始めた。 鄭鴻永先生は鄭世和先生の父親で神戸西宮甲陽園の地下号で朝鮮人労働者が書いた「朝鮮国独立」という文字を発見された方としても有名だが、その現場には近藤先生もいらっしゃった。
朝鮮人犠牲者のための祭祀は事故現場だった旧福知山線第6号トンネル前で毎年開かれた。 年を重ねるにつれ、日本人と在日朝鮮人の参加が増えた。 鄭鴻永先生は「この方々のための追悼碑を建立してほしい」と口癖のようにおっしゃったが、志を成せず2000年1月に他界された。
一方、1914-15年に神戸水道工事中に死亡した3人の遺体は西谷村の共同墓地に安置され、その位牌は近隣の仏教寺院滿福寺に祀られ、3代にわたる住職とこの村の婦女会員たちが100年以上無縁故者追慕祭事を行ってきた。
この事実を知った近藤富雄先生は鉄道工事犠牲者と水道工事犠牲者のための合同追悼碑を建立することになり、ついに2020年3月26日<宝塚朝鮮人追悼碑>が建立された。 鄭鴻永先生の遺志が近藤先生によって20年ぶりに輝いたのだ。
追悼碑の建立にとどまらず、近藤先生は私に犠牲者の韓国緣故地を探してほしいと言った。 私は多角的な調査の末、そのうちの一人である金炳順氏の故郷が江原道江陵という事実を確認し、これを近藤富男先生に知らせることができた。 近藤先生は大喜びだったので、私は他の4人の縁故確認にも熱心だ。 (継続)
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