今、東京五輪が進行中で、選手たちのヒューマンドラマが続出している。 コロナ19の影は仕方ないが、2年前から悪化した韓日政府の対立が五輪韓日首脳会談の不発にまでつながり、両国市民の五輪観覧はそれほど楽しいものではなさそうだ。
しかし、市民の心がいつもこのように不便だったわけではない。 いくら政府が対立しても、市民はお互いの立場を理解し、お祝いすることを祝い、同情することに同情した。 甚だしくは韓国が日本の植民地だった時期にもそのようなことがあった。
1935年6月、舞踊家の崔承喜(チェ·スンヒ)は朝鮮舞踊公演のため名古屋を訪問した。 当時も日本列島は五輪熱気で熱く、名古屋も例外ではなかった。 1936年ベルリン夏季オリンピックまではまだ1年以上の時間があったが、日本の祭りはすでに始まっている。 ちょうど1940年のオリンピックを東京に誘致したため、日本市民は誇りを膨らませた。
コロナ19と経済制裁問題で韓日間の旅行が制限される直前、私は名古屋の愛知県立図書館で<中日新聞>の前身である<名古屋新聞>の記事を一つ見つけた。 1935年6月10日付の新聞7面に掲載されたインタビュー記事だった。 マイクロフィルム読取機画面の記事は、活字がつぶれて写真もぼやけていたが、当時24歳の崔承喜のはつらつとした姿を確認することができた。
当時、崔承喜は日本で人気を博していた。 彼女の踊りが日本の伝統舞踊や近代舞踊ではなく、朝鮮舞踊だったにもかかわらず、市民たちは歓迎してくれた。 朝鮮時代の舞踊「エヘヤ·ノアラ(1933)」を皮切りに「剣舞(1934)」と「僧舞(1934)」が崔承喜のトレードマークとなっていた。
同記事を作成した匿名の記者は、朝鮮の植民地状況と崔承喜の踊りの意味をよく理解していた。 彼は崔承喜の舞踊をこのように要約した。 「彼女がユーモラスな交泰で踊る時、朝鮮が笑い、彼女が寂しく踊る時、朝鮮が泣く。」
崔承喜を「民族の長い伝統美を世界に誇る新時代の娘」と紹介したのは意外だった。 「新時代の娘」という表現は理解できたが、崔承喜の人気は朝鮮と日本に滞在していた頃である。 それでも記事は民族の伝統美を「世界に誇る」と書いた。
この「予告」は現実となった。 崔承喜は1年半後の1937年12月29日、横浜から秩父丸に乗って米国へ向かった。 それから3年間、崔承喜はヨーロッパと南北米の3大陸で「民族の長い伝統美を世界に誇った」とし、この記事の予言は的中したわけだ。
記者はまた、この新進の朝鮮舞踊家にインタビューし、五輪の話を添えた。 彼は「私も走りたい」という崔承喜の言葉を引用し、当時の女性としては長身だった5尺4寸(=164センチ)の高さを指摘し、「走っていたらオリンピック選手になったはず」という崔承喜のうきうきした発言も引き出した。 続いて記者が付け加えた。 「あなたはすでにオリンピックの舞踊家です」
タイトルを「民族の表情」としたこの短い記事は、当時の朝鮮の植民地状況と日本のオリンピックの雰囲気を背景に、崔承喜の朝鮮舞踊の性格と芸術性もうまく表現している。
この記事を読んだ読者はどう感じたのだろうか。 日本人市民たちは、植民地の状況でも朝鮮舞踊の公演を休まない崔承喜を応援しただろう。 日本に居住していた朝鮮人たちも民族文化を守ってくれる彼女が誇らしかったはずだ。
記事に添えられた写真の中の崔承喜の姿は自然で躍動的だ。 マイクロフィルムで見た写真は背景もぼやけていて衣装も見当がつきにくかったが、表情だけは明るくて力強い「朝鮮娘」だった。 もしこの写真が新聞社のアーカイブに保管されているなら、その原本を必ず見たい。
この記事は読者から肯定的な反応を受けたに違いない。 そしてその読者の中には85年後の五輪に際してこの記事を読み返した私も含まれる。 その長い時間の流れに打ち勝ったこのような記事こそ、真のジャーナリズムだと私は思う。 (*)
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