崔承喜先生の宝塚大劇場公演は1935年11月9日夕方7時に開演されました。 このニュースは関西地域のほぼすべての主要新聞が報道し、公演を宣伝する広告も掲載しました。
<大阪毎日新聞(11月8日、14面)>が公演日より1日早く報道し、続いて<神戸新聞(11月9日、2面)>と<大阪朝日新聞(11月9日、7面)>、<京都新聞(11月9日、2面)>の朝刊新聞が公演記事や広報広告を掲載しました。
いざ宝塚の地元新聞の記事は見つからなかったのですが、宝塚中央図書館には古新聞が所蔵されておらず、明石の兵庫県立図書館にもその日付の宝塚新聞が保管されていなかったからです。 宝塚新聞はもう少し熱心に調べる必要があります。
各公演記事と広告記事は大きく2つの部分に分かれています。 9日の公演を知らせる内容と10日午前10時と午後1時に始まる崔承喜野外舞踊撮影大会を知らせる内容です。
崔承喜撮影大会とは、舞踊衣装姿の崔承喜が一つや二つの舞踊作品を試演している間、入場を承認された申請者が自分のカメラを持って崔承喜の舞踊姿を撮影する競演大会でした。 会場はだいたい野外だったので野外舞踊撮影大会と呼ばれていました。
野外舞踊撮影大会はたいていコンテストでした。 撮影大会が終わると、参加者は自分が撮った写真を現像、プリントして写真作品を完成させ、これを郵便や直接主催側に送ることになっていました。 主催側は作品を審査して選別して入選者を選定し、授賞をしたりしました。
崔承喜野外舞踊撮影大会は1934年8月1日鎌倉由比ヶ浜海辺でも開かれ、1935年10月6日には東京都の西端の遊園地である奥多摩渓谷でも開かれた経緯があった。
由比ヶ浜の撮影大会は東洋写真工業社が主催したコンテストで、この大会で2位に入選した桑原甲子雄(1913~2007)の崔承喜写真が今でも広く知られている。
奥多摩の撮影大会は一つ制限をかけました。 ライカカメラ所持者のみ申請資格がありました。 申請者が殺到すると主催側は申請者を約280人に制限し、この日撮った写真は1人当たり3枚ずつしか出品できませんでした。 撮影大会の後援会社である写真雑誌社<写真新報>は自社の写真記者が撮影した崔承喜写真10枚を1935年11月号に掲載しました。
ところで宝塚の撮影大会は由比ヶ浜や奥多摩の撮影大会より規模が大きかったです。 参加者の数を制限しましたが、その数が1200人でした。 宝塚大劇場周辺の広い空間を活用できたからでしょう。
撮影大会は午前と午後の2回に分けて行われましたので、それぞれ1200人が参加したのか、あるいはそれぞれ600人で合わせて1200人が参加したのかは定かではありませんが、後者の場合でもこれは崔承喜撮影大会の中で最大規模です。
宝塚大劇場が2千席で、9日の公演入場料が50銭(特席300席は1円)だったのに対し、撮影大会の参加費は一律1円だったので、公演収入より撮影大会収入の方が多かったです。
しかし、この日の撮影大会で撮影された崔承喜の写真が公開されたことはありませんでした。 私が宝塚地方紙を見つけられなかったからかもしれませんが、もしかしたらこの大会では撮影だけを許可してコンテストを行わなかった可能性もあります。
1935年11月10日、宝塚大劇場野外舞踊撮影大会で撮影された数千枚、いや数万枚の崔承喜の写真はすべてどこに行ったのでしょうか。
撮影大会の参加者たちの屋根裏部屋や倉庫で眠っているかもしれないし、あるいは現像や引火すらされないまま捨てられたのかもしれません。 いずれの場合も、宝塚撮影大会から90年近く経った今では、それらの写真を取り戻す方法はほとんどないようです。 (*)