大邱地域の新聞の閲覧が不可能だったため、石井舞踊団の大邱公演に対する残りの関心事は、すでに明らかになっている事実をもとに推測と解釈で解かなければならなかった。 私が気になったのは公演のレパートリーだった。 1926年3月26日の大邱公演ではどんな作品が発表されたのだろうか。
大邱公演のレパートリーはこれまで明らかになったことがない。 現地新聞では報道されたかもしれないが、大邱近代歴史館や大邱市立中央図書館では確認できなかった。 公演者だった石井聰聰、観察者崔承喜(チェ·スンヒ)の回顧録にも大邱公演発表作品が言及されていなかった。
しかし、大邱公演のレパートリーも京城公演と仁川公演のレパートリーとそれほど違わなかったと推定された。 当時舞踊団は東京や京城で年に1~2回「新作創作発表会」を開き、続いて他の都市を巡回しながら作品を再公演するのが慣行であったからである。 1932年6月7日付の『毎日新報』にも、次のような記事が載っている。
「2年ぶりに来選し、京城公会堂で空前の歓喜を受けた舞踊隊が、石井漠一行は9日午後7時から仁川公会堂で新作舞踊公演会を京城日報の後援で開催することになったが、"プロ"は京城で発表したのと同じだという」
つまり、1932年6月9日の仁川公演発表曲は、6月4-5日に開かれた京城公演レパートリーと「同一」であるということである。 しかし、両公演が完全に同じだったと断定するには早い。 1926年3月18日の『朝鮮新報』は石井舞踊団の京城公演レパートリーを次のように報じた。
「1. 舞踊詩 『メランコリー』, 2. 舞踊詩 『夢見る人』, 3. 舞踊劇 『囚われた人』, 4. 児童舞踊 『わんぱく小僧』, 5. 舞踊詩 『山を登る』, 6. 舞踊詩 『明闇』, 7. 舞踊詩 『ソルベイジの歌』, 8. 表現的舞踊詩 『マスク』, 9. 舞踊詩 『つらい影』, 10. 舞踊詩劇 『若い版とニンフ』, 11. アンコール曲 『日本舞踊』」
この作品リストは京城公演が始まる前にマスコミ各社に届けられたものなので、おそらく3月21日の京城初公演のレパートリーだったに違いない。 一方、3月24日の『京城日報』は京城最後の公演(3月23日)の作品を次のように報道しているが、これらの作品は崔承喜が観覧したものである。
「舞踊詩 『たそがれ』、表現派舞踊 『奇妙』、児童舞踊 『今夜は』(山田耕作さん作曲·松浦ダービーと出演)、舞踊詩 『あきらめ』と『ヘブライのメロディ』、無音楽舞踊 『習作』とその他の7~8編だが、石井漠の苦心の末に振付した作品で、因果の深い劇的な雰囲気が濃い作品だ」。
このリストにタイトルが並んだ6作品と名前が明示されていない「その他の7-8編」を合わせると京城最後の公演では13-14作品が公演されたことになる。 ところが、『私の自叙伝(1936)』と『朝光(1940年9月号)』の寄稿文で、崔承喜は『囚われた人』と『山を登る』、『メランコリー』、『食欲を引く』を観覧したと回想した。 したがって、題名が明らかにされていない作品は3~4個であるが、これらも京城初公演の作品であったと思われる。
したがって、当時石井舞踊団は、各公演ですべて同じ作品を発表したのではなく、前の公演のレパートリーのうち半分程度を入れ替えて発表作品に変化を与えていたことが分かる。 これは相次いで観覧する舞踊ファンへの配慮だろう。
要するに京城3日目公演のレパートリーの中で6作品が初日と違い、2日目公演のレパートリーもそれほどの割合で違っていたら、全体レパートリーは約21個に達したはずだ。 この作品プールから石井漠は必要に応じて各公演の発表作品を選別したのだ。
このため、大邱公演のレパートリーを正確に推測することは容易ではなかった。 約21作品のうち、どの作品が大邱公演のために選定されたのかを判断するのは、ほとんど不可能だからだ。 これも追加的な資料発掘が切実な分野だ。 (*)
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