大阪の生野コリアタウンには「百済門」が建てられています。 西暦4世紀からここに住んでいた百済人を思い出させ、朝鮮人がこの地域に居住した歴史が1600年を超えることを広く知らせるためでしょう。
日本の仁徳天皇時代から渡来人がここに住んでいたのは事実ですが、奈良時代末期、つまり西暦8世紀頃にはここに残っていた百済人の痕跡は消えます。 百済の王家も猪飼野を離れ、大阪北部の枚方に移り、ここに設置されていた百済郡も廃止されたからです。
20世紀初頭、猪飼野は依然として大阪の郊外地域で、稲や綿花を栽培する農家数十戸にすぎない農村部落でした。 それが1919年に<鶴橋耕地整理組合>が結成され、農地整理と下水道整備が行われました。 蛇行していた平野川を直線で整備し始めたのもこの時でした。 これは農地整備自体が目的ではなく、まもなく大阪市に編入(1925年)されることに備えて住宅団地及び工場地帯を造成するためのものでした。
大阪市に編入された直後から、猪飼野は平野川沿いにゴムや金属製品の製造や加工工場が建てられました。 ほとんどが中小規模の工場で、東大阪とともに大阪の代表的な中小工場集積地となりました。
まさにこの時、つまり1920年代から猪飼野に朝鮮人が移住し始めました。 特に1922年、日帝が済州島-大阪の定期直行航路を開設したことがきっかけで、大阪-済州島往復船<君が代丸>に乗って済州島の朝鮮人が大挙渡ってきました。
猪飼野地域では1920年代と1930年代にゴム工業の全盛期が始まりましたが、このような発展を支えた労働力は朝鮮人が担当し、特に済州島出身の朝鮮人がゴム産業に最も多く従事しました。
大阪企業報道会議の1924年の調査報告書によりますと、定期航路開設から2年間で済州島から大阪に渡航した朝鮮人渡航客は1004人で、そのうち済州島出身が609人で60%を超えています。 それから10年後の1934年までは約5万人(男性2万9千360人、女性2万685人)の済州道民が日本に渡り、大阪に滞在したり、日本の他の地域に移住したりしました。 これは当時の済州男性人口の3分の1、女性人口の5分の1で、済州島全体人口の25%に達する数字でした。
彼らはたいてい職業を求すための労働移民として猪飼野に定着し、男性はゴム工場労働者に、女性は紡織工場の職工として就職し、工場就職ができなければ鉱夫、雑夫、洗濯夫などとして働いたり、甚だしくは荒仕事と行商をしながら生活の基盤を築いていきました。
一つ悲しい現象は、1925年頃、遅れて大阪に渡ってきた済州道民が、すでに一定の基盤を築いた他の地域出身の朝鮮人から「島民」と蔑視されたりしたということです。 済州道出身の労働移民者は日本社会だけでなく朝鮮の他地域出身者から二重の差別を受けながら暮らさなければならず、強迫せざるを得ない移民者生活はより一層苛酷でした。
1930年代には猪飼野の平野川運河の改修工事が続きましたが、猪飼野に定着した朝鮮人が労働者として大挙参加しました。 済州出身の朝鮮人たちも荒労働隊列に合流する一方、平野川運河労働者たちを収容する食堂を運営しながら生活の土台を続けました。
1930年代末、日帝は国家総動員法(1938)と労働関係勅令(1938)、国民職業能力申告(1939)と国民徴用令(1939)などを相次いで発令し、朝鮮人の徴用と徴兵を強要しました。 この結果、1939年に4万5千9百人だった在日の済州人は1945年の解放当時は10万人を超えました。
1945年に朝鮮が解放されると、200万人の在日朝鮮人のうち145万人(約73%)ほどが帰還し、およそ55万人(約27%)が残りましたが、猪飼野在住の朝鮮人の帰還率は60%にとどまりました。 ほとんどが済州島出身の猪飼野住民は伝染病と治安不安などの理由で済州島に帰らず、帰還しても働き口がなくて再び大阪に戻ってきたりもしました。 (*)
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