鄭弘永(チョン·ホンヨン、1929-2000)氏は985年から2年余りの文献調査と現地踏査を通じて、南益三(ナム·イクサム)氏が居住していた合宿所の位置と彼が働いていた作業場を推論のレベルでも特定することができた。 しかし、南益三氏がどのトンネル工事でどんな事故で死亡したのか確認できなかった。 何の記録もないからだ。
鄭鴻永さんは『紅葉館』の女将である松本文美さん(當時78歳)からトンネル工事事故に関する簡単な証言を得ることができただけだった。 松本彩美さんは「トンネルで発破事故で負傷者がかなり多かった」とし、被害者たちは「全身に石が刺さって今日は3人、明日は5人というふうに血まみれになって医師に運ばれる」と話した。
鄭鴻永さんはトンネル事故を調査する際、同時に3人の朝鮮人犠牲者の埋葬地を調査した。彼らの死亡後についても何の記録もなかったので、主に西谷地域の元老たちを訪ねて聞き込みを続けた。 長年の聞き込み調査の過程を鄭弘永氏は次のように述べている。
「私が西谷に何度も足を運んだのは、隧道工事の現地調査や聞き取りの他にもう一つ別の目的があつた。それは埋葬地を探すことであつた。西谷には昔から「参り墓」、「埋め墓」のいわゆる両墓制の風習が近年まで残つていて、人が死ぬとまず「埋め墓」に土葬して墓は別の所に建てるのである。西谷村役場が発行した認許証もまた火葬でなく埋葬である以上、間違いなく西谷のどこかに埋められているはずであつた。地元のお寺の過去帳を調べたり、墓地をまわつて墓石や無縁仏を探してみたりしたが、どうしてもそれらしい場所を確認することができないので、...」
この文を読みながら筆者は無念な死にあった朝鮮人労働者の埋葬地を訪ね、その広くて険しい西谷山間地域を探し回った鄭鴻永先生の姿が浮び上がった。 どれだけ漠然としていただろうか。
しかし、考えてみると慰めになる点もあった。 鄭鴻永先生はおそらく近藤富男(1950-2022)と同行しただろう。 二人はいつも一緒に調査し、一緒に研究していたパートナーだったからだ。 2000年1月、鄭鴻永先生が亡くなった後、彼を追慕する文で近藤富男先生は「私は彼の金魚の糞になった」と書いたことがあるほどだった。
1986年秋、ついに鄭鴻永先生と近藤富男先生は南益三氏を含む3人の朝鮮人が埋葬した埋葬地を発見した。 西谷の大原野に住んでいた郷土史学者の光国光氏の助けで西谷の共同墓地跡を見つけることができたのだ。
「一九八六年初秋のある日、光国さんから電話で埋葬地がわかつたという連絡を受けた。翌日私は、光国さんといつしょに車を走らせて埋葬地へ向つた。玉瀬の墓地から少し離れた小高い山の中へ入ると、まだ若い栗の木が一面に植えてあつて、どう見ても人が埋められた埋葬地には思えなかつた。
光国さんの説明によると、この山は昔から村の共有地であり、農家が飼つていた牛や馬が死んだ時に埋めた「馬墓」であつた。始めは玉瀬の墓地の下手にある空地に埋められたが、そのうちに場所が狭くなつてこの馬墓の横に次々と埋められたことが、地元古老の間で細々と伝えられているというのである。」
鄭鴻永先生はついに3人の朝鮮人労働者が埋まっているところを訪ねたが、数十万人の神戸市民に生命水を送る工事に自身の命を捧げた人々の埋葬地とは見られないほどみすぼらしい。 土が覆われたところに風化した石がむやみに置かれていることから、そこが捨てられて久しい墓地だということが分かった。 鄭鴻永先生は自分の感想をこのように付け加えた。
「私は声も出ず、しばらくの間その場に立ち尽くすのみであつた。八〇年もの長い歳月を、彼らはいつたいどんな思いでこの地の下で眠り続けているのだろうか。遠方から出稼ぎに来て生命を落とした人達や、はるばる海を渡つて来て異郷の地で死に、牛や馬の墓に埋められた朝鮮人たちの無念の気持ちが、胸に伝わるようであつた。私は心の中で手を合わせて彼らの冥福を祈るのみであつた。」 (2022/9/6、jc)
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