1930年代の在日朝鮮人には宝塚が二つの顔を持つヤヌスでした。 華やかなショービジネスのメッカでありながら、朝鮮人の苦難の現場だったからです。 宝塚の表面的華やかさには地域近代化過程で低賃金と過労働に苦しめられた朝鮮人の血と汗がにじむわけです。
ところが1930年代後半、つまり1935年末から1937年までの短い期間、宝塚の華やかな顔と暗い歴史が出会う事件が発生しました。 朝鮮舞踊家崔承喜の登場です。
崔承喜先生は1926-1929年、東京の石井舞踊団で舞踊留学を終えた後、朝鮮に戻って公演活動を行いましたが、大きな成果は得られませんでした。 朝鮮の舞踊賤視風潮と近代舞踊に対する無理解のためでした。 1931年5月に安漠(アンマク)先生と結婚し、1932年8月に長女の安勝子(アン·スンジャ)を出産した崔承喜は、1933年3月に夫と娘とともに2番目に東京に渡り、石井舞踊団の首席舞踊家として朝鮮舞踊の新しい道を切り開きました。
1933年5月20日、女性誌『令女界』が主催した『近代女流舞踊大会』で朝鮮舞踊作品『エヘヤノアラ』(1931)を発表し、大きな反響を得ました。 『エヘヤ·ノアラ』の成功に支えられ、崔承喜は朝鮮の伝統から素材を取り、近代的に再構成した『僧舞(1934)』や『剣舞(1934)』などの朝鮮舞踊を相次いで発表しました。 1935年5月、石井舞踊団から独立して<崔承喜舞踊団>を立ち上げた彼は、その年の10月20日、東京で第2回舞踊発表会を開いた後、すぐに日本巡回公演に出ました。
大阪(10月25日)と神戸(10月26日)、岡山(10月27日)と呉(10月29日)と広島(10月30日)で公演した崔承喜はしばらく息を引き取った後、京都(11月8日)と宝塚(11月9日)で舞踊公演を行いました。
1935年になると宝塚少女歌劇団が創立(1913)されてから20年以上が経ち、少女歌劇団ブームが日本全土に広がった時です。 全国各地に類似少女歌劇団が作られ、広島の羽田少女歌劇団(1918)、大阪の琵琶少女歌劇団(1919)と浪華少女歌劇団(1921)、東京の松竹少女楽劇部(1922)がそれでした。 1932年には松竹少女楽劇部が名前を松竹少女歌劇部に改称し、その時から宝塚と松竹の少女歌劇団はライバルとなり、ダンスと歌を合わせたレビュー公演団の先頭走者の座を引き継いでいきました。
特に宝塚少女歌劇団が1932年に東京に進出し、浅草松竹座劇場に拠点を置いた松竹少女歌劇部が1933年に新宿第一劇場に本拠を移した後は、両歌劇団が全国的な巡回公演に踏み切り、少女歌劇団全盛時代を作っていました。
これと共に、いたるところに宝塚という名の劇場が設立されました。 1932年に東京宝塚劇場が開館して以来、1935年には横浜、名古屋、京都に宝塚劇場がオープンしました。 朝鮮でも京城の乙支路にあった黄金芸能館(1913)が京城宝塚劇場(1925、1940))に改称され、大邱の大邱キネマ倶楽部(1938)も大邱宝塚劇場(1940)に改称されました。 宝塚少女歌劇団の人気が映画界にも広がり、宝塚劇場の盛業につながったのです。
少女歌劇団ブームで日本の伝統舞踊や近代舞踊など芸術舞踊が大きく萎縮しましたが、崔承喜の朝鮮舞踊だけは人気が高まりました。 崔承喜の朝鮮舞踊は扇情性を強調しなかった芸術舞踊でしたが、崔承喜自身の美貌と作品の異国性が観客にアピール力を持っていたからでしょう。
それとともに崔承喜の公演を観覧で支えてくれた朝鮮人同胞の声援も大きな役割を果たしました。 崔承喜の公演は主に朝鮮同胞が多く居住していた地域で開かれたりしましたから。
宝塚大劇場は少女歌劇団の公演以外に他の芸術家/芸能人に貸館しないことで有名だった劇場です。 しかし、1935年11月9日の崔承喜公演はそこで行われました。 崔承喜に例外を提供したのです。
そんな特恵のおかげで宝塚の陰に住んでいた朝鮮人たちは、華やかな大劇場の舞台で朝鮮の衣装を着て朝鮮音楽を伴奏で繰り広げられる崔承喜の朝鮮舞踊を鑑賞することができました。 (*)
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