在日朝鮮人雑誌『イオ』の連載物「草創期の朝鮮学校」によりますと、記録に示されている最初の在日の国語講習所は1945年9月6日、兵庫県姫路市英賀宮の国語講習所でした。 名前が明らかになっていないこの地域のある朝鮮人同胞が自分の家に16人の児童を集めて国語講習を始めたのが嚆矢でした。
一週間後の1945年9月13日、東京·足立の国語講習所もオープンしました。 解放されてから1ヶ月も経たないうちに関西と関東にそれぞれ朝鮮語を教える学校ができ始めたのです。
朝鮮講習所の拡張に多大な努力を傾けていた『在日本朝鮮人連盟(=朝連)』の飾磨支部が結成されたのが10月3日、地域の力が集まって朝連中央連盟が結成されたのが1945年10月15日でしたので、飾磨と足立の国語講習所は朝連より先に始まったことになります。
特に朝連の飾磨支部が結成されたとき、この地域にはすでに3つの国語講習所が開いていました。 そこで、飾磨支部は、この地域の3か国語講習所を統合し、10月30日に英賀東町に飾磨朝連初等學院を開校しました。
この初等學院の開校当時の児童数は130人、教員が4人でしたが、わずか半年後の1946年4月、飾磨初等學院の児童数は200人を超えました。 朝鮮学校の成長の勢いがどれほど急だったかが分かります。 この地域には新日鉄広畑製鉄所や姫路港があり、ここで労働に従事していた朝鮮人同胞が多かったので、彼らの子供たちも多かったのです。
朝鮮中学校が最初に開校した地域も姫路でした。 1946年6月26日、姫路市飾磨区栄町の2階建て木造建物を借りて朝連飾磨学園中等部が創立されました。 この学校は「日本全域で最初に開校した朝鮮中学校」と記録され、「日本中学校を中退した者、小学校卒業者、学歴該当者55人」が登録し、初の朝鮮人中学生として登校しました。
1946年10月3日に新日鉄広畑製鉄所の運動場で第1回運動会が開かれましたが、この行事には朝鮮学生、教職員、學父母、地域同胞がおよそ2千人集まったことから、この地域に在日同胞がどれだけ多く住んでいたかが分かります。
1947年4月には朝連飾磨学園中等部が独立して朝連飾磨中学校となり、1948年4月には西張朝鮮中学校と改名。12月28日には学校設置認可を得ました。 同校には北播州地域や神戸の三宮などでも通学生がいたという。
西張朝鮮中学校には1948年、地元の朝鮮人商工人の出資で兵庫県唯一の吹奏楽部が結成されましたが、部員数は12人でした。 吹奏楽部員は兵庫県の各種同胞集会に出演していましたが、学校の運営が難しくなると1948年末に解散したと記録されています。
一方、朝鮮高等學校が最初に建てられたのは東京でした。 当時、東京にも数十の国語講習所が建てられると、1946年6月の朝連中央総本部第2回全国文化部長会議で東京都内に朝鮮中学校と夜間中学校を設置することが提案され、この提案が受け入れられ、1946年10月5日に東京に朝鮮中学校が開校しました。 姫路に飾磨学園中等部が開設されてからわずか3ヶ月ぶりでした。
板橋区役所から日本軍兵器倉庫の席を払い下げられ、校舎を設けた東京朝鮮中学校の最初の入学生は329人、教員は11人で、初代校長は朝連の尹槿委員長が兼任しました。 東京朝鮮中学校は1946年11月8日東京都知事から各種学校認可を受けました。
2年後の1948年6月、東京朝鮮中学校は1期生の卒業を前に高等学校併設を決議した後、東京都知事に東京朝鮮高等学校設置認可申請書を提出しました。 この申請書は2日後に受理され、これに伴い1948年10月4日に東京朝鮮高等学校が開校しました。
東京朝鮮中学校と高等学校の生徒数は急速に増加し、1948年には880人だったのが1949年9月には全校生徒が1千人を超え、1千136人だったと記録されています。 (*)
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