大阪の丸福と三和、神戸の上島と西村コーヒー店をおすすめしたら、それが日本の初期のカフェなのかと聞かれた方がいらっしゃいましたが、違います。 上島が1933年、丸福が1934年に開業したそうなので、そんな気がしたようですが、少し検索してみるとわかるように、日本のコーヒー店は延元の方が古いです。
記録に示されている日本最古のコーヒー専門店は、鄭永慶(ていえいけい, 1858-1894)が1888年4月23日に東京·上野西黒門町に開業した「可否茶館」というのが定説です。 鄭永慶は中国の明が滅びると清を避けて日本に逃げた鄭成功(ていせいこう, 1624-1662)の子孫で、アメリカのイェール教育を受けた後、通訳士、英語教師、事業家として活動した人物です。
コーヒー(coffee)またはカフェ(cafe)を漢字で「可否茶」と書きましたが、「かいさ」と読んだり「カツヒ」とも発音したという記録もあります。 意味も「飲めるかどうか曖昧なお茶」であったことを見ると、西洋の新聞物を持ち込んでその成功に自信がなかったことが推察でき、そのような商品の名前をつけるために苦心した形跡もうかがえます。
<可否茶館>は開業5年後の1895年に経営難で廃業し、創業主の鄭永慶も自殺を図ったのを見ますと、当時はコーヒーが「飲めそうにない」と評価されていたようです。 「可否茶館」が開業した場所、つまり今日の東京都台東区上野一丁目に「可否茶館跡地」という名札が建てられています。
1910年には、ベルギー公使館のシェフだった奥田駒蔵(1882-1925)が数年間のヨーロッパ生活を終えた後、東京·日本橋小網町にコーヒー専門店「メイゾン鴻之巣」を開業しました。 メイゾン(maison)は「家(House)」というフランス語で、「ガンノス」は「雁の巣」という意味ですが、若い文学家や芸術家が集まるコーヒー専門店でした。
1911年12月、日本の第1世代ブラジル移民だった水野龍(1859-1951)が東京銀座6丁目にオープンした「カフェパウリスタ」も上島や丸福より20年以上進んだコーヒー店です。 「パウリスタ」とはポルトガル語で「サンパウロ人」という意味ですが、水野龍がブラジルに住んでいたところがサンパウロだったことから付けられた名前でした。
1909年、ブラジルのコーヒー価格が暴落すると、水野龍はブラジル政府から年間コーヒー豆1千俵(=約500トン)を無償で提供され、日本に普及し、「カフェパウリスタ」を開業しました。 <カフェパウリスタ>は名古屋や神戸、横須賀などと中国上海にも支店を出した日本初のフランチャイズコーヒーショップとして盛業中でしたが、1923年の関東大震災で店が破壊され、コーヒー豆の無償提供が中断されるとカフェは廃業し、事業をコーヒーの輸入やコーヒー豆のローストに縮小しました。
1970年に銀座8街に「カフェパウリスタ」が再び開店しましたが、1978年にジョン·レノンと小野洋子がここを訪れたため、世界的に名前が知られるようになりました。
1910年以前にも東京に別の「カフェ」がありました。 旧制一高(東京大学の前身)の前に「本郷カツフエ」があり、早稲田大学の前にも<早稲田カツフエ>がありました。 しかし、これらのカフェはコーヒー店ではなく洋食屋だったそうです。
そして1911年にはパウリスタ以外にも「カフェプランタン(3月)」と「カフェライオン(8月)」が開業しましたが、パウリスタはコーヒー専門店でしたが、プランタンとライオンは美人女級の接待を受けながらお酒を飲むところでした。 この時からカフェとキッサテンが区別され始めましたが、カフェは女給酒場で、キッサテンはコーヒー専門店でした。
その後、大正民主主義時代(1912~1926)に蔓延したエログロナンセンスの風潮とともに少女歌劇団や各種雑誌の全盛時代が始まり、それとともにカフェという名の享楽産業やキッサテンという名のコーヒー産業も共に成長したのです。 (*)
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