別の中央日刊紙『朝鮮新聞』は早くから石井漠の新舞踊に深い関心を示していた。 1925年4月7日付の『朝鮮新聞』は、石井漠と小浪がアメリカとヨーロッパの公演を終えて日本に帰国したことを報じた。 帰国日が4月3日だったので京城の新聞にしては迅速な報道だった。
その記事に添付された写真は、石井漠と小浪が2年余りの巡回公演を終えて横浜に帰る途中、帰国船の春洋丸甲板でポーズを取ったものだが、マスコミ配布用に準備されたものと見られる。 しかし、朝鮮の他の新聞はこの記事はもちろん、写真も掲載しなかった。 急を要する重要な事案ではないと判断したのだろう。
しかし、『朝鮮新聞』はこの写真を入手し、説明文とともに掲載した。 石井漠が舞踊界の名士であっても、彼が京城を訪問したわけでもないにもかかわらず、彼の帰国を写真と共に報道したのは、『朝鮮新聞』が石井漠の舞踊活動に注目していたという意味である。
石井舞踊団の朝鮮巡回公演を最初に報道したのは『朝鮮新聞』である。 1926年2月19日付の記事であり、京城公演がある1ヵ月前のことだ。 『東亜日報』はそれから二日後(2月21日)、『京城日報』は半月後(3月3日と3月10日)、『毎日新報』は一ヶ月後(3月16日)に同じニュースを伝えた。
記事は「昨年、丘珠から帰ってきた石井石井漠、小浪兄妹が朝鮮に渡り、京城で自慢のバレエ、ダンス舞踊の公演をすることにした」とし、石井漠から郵便で送られてきたあいさつまで転載した。 石井漠の挨拶は、後援社『京城日報』にも載せなかった特ダネであった。
また、3月18日付の『朝鮮新聞』は石井舞踊団の京城公演レパートリーを入手し、各作品の題名とジャンル、公演者の名前まで報道した。 これもやはり最も早い報道だった。 『京城日報』は3月20日に番組を掲載したが、『朝鮮新聞』は11作品、『京城日報』は9作品だけ紹介している。
『京城日報』のリストから漏れた作品は、石井漠と松浦旅人のデュエット舞踊劇「明闇」と石井小浪がアンコール曲として準備した「日本舞踊」だったが、これら2作品を除いた理由は明らかにされていなかった。
3月21日付の『朝鮮新聞』は「世界的舞踊家石井漠、コナミ兄妹一行は20日午前7時、京城駅に到着した列車で入京、原金旅館に泊まり、正午に本社を訪れた」とし、石井舞踊団の動線まで伝えた。 石井舞踊団が京城に到着した時間と宿所を明らかにして報道したのは『朝鮮新聞』が唯一である。
また『朝鮮新聞』の記事は「来月東京で公演する第3回の研究作品発表には多数の朝鮮と中国の舞踊を入れてみるつもり」という石井漠の計画も報じた。
新舞踊と石井漠について深い関心を寄せていた『朝鮮新聞』であったが、石井舞踊団の大邱公演は全く報道されなかった。 1888年、仁川において創刊され、1919年に本社を京城に移し、中央紙となった『朝鮮新聞』は、大邱地域のニュースまで気にする余力がなかったのだろうか。
『朝鮮新聞』にも大邱支局があった。 1915年2月14日付の『釜山日報』に「<朝鮮新聞>大邱支局記念号発行」という記事が載っていることから、『朝鮮新聞』は遅くとも1914年から大邱支局を運営していた。 にもかかわらず、『朝鮮新聞』には大邱公演の記事はなかった。 なぜだろうか。
おそらく『朝鮮新聞』が石井漠の大邱公演のスポンサーではなかったからであろう。 京城公演は『京城日報』が、大邱と釜山公演は『釜山日報』が後援し、京城公演は『朝鮮新聞』も報道したが、『釜山日報』が後援する地方公演まで広報したくなかったと思われる。
また、大邱は『京城日報』や『朝鮮新聞』の縄張ではなく、『釜山日報』の領域と認識された。 京城公演を後援した『京城日報』は、大邱支局の送稿を受け、単身ではあるが大邱公演も記事にしたが、『朝鮮新聞』はそこまでする必要性を感じなかったようだ。 当時のマスコミ報道の慣行に、すでに後援を通じた「事業性」と地理的「領域」の概念が重要だったと思われる。 (*)
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