『京城日報』と『朝鮮新聞』が石井舞踊団の「京城公演」を詳しく報じたのに対し、『釜山日報』は京城公演の記事を一度も出したことがない。 一方、『釜山日報』は大邱と釜山公演は他のメディアより早く、詳しく報道した。 ここにも「事業性」と「領域」の概念が働いたのだろう。
「この4年間、欧州と米国各地の巡回公演を終え、舞踊研究に没頭してきた石井漠と小浪一行は京城を出発し、26日の1日間、大邱劇場で公演することにした」。
1926年3月26日付の『釜山日報』の記事は石井舞踊団の大邱公演を報道した最初の報道である。 『京城日報』は2日後の3月28日、「石井漠と小浪の舞踊詩公演会は26日午後6時から大邱劇場で開催」と報じた。
『釜山日報』と『京城日報』の記事を総合すると、石井舞踊団の大邱公演に関する六何の基本情報がすべて把握できる。 大部分は『釜山日報』がすでに公開しており、『京城日報』は公演時間が夕方6時だったことを追加で紹介している。
二つの記事とも[大邱発]記事で二つの新聞社の大邱支局が送稿したものだが、『釜山日報』の記事は行事前のお知らせ記事であった反面、『京城日報』の記事は行事終了後の報告記事であった。
これは『釜山日報』が観客を集めるための広報効果も狙ったためだった。 3月28日と29日の『釜山日報』報道は釜山公演を広報する広告文で、ここには釜山公演の主催者が<釜山石井漠後援会>であり、後援者は『釜山日報社』であった。 大邱公演の後援者も『釜山日報』だったと推定される。
一方、『京城日報』、『朝鮮新聞』、『釜山日報』を除く他の主要新聞、特に朝鮮語で発行されていた『毎日申報』、『朝鮮日報』、『東亜日報』、『時事新聞』、『中外日報』は石井舞踊団の大邱公演を一度も報じていない。
これらのメディアも大邱支局をすべて運営していたが、その活動は当時総督府の機関紙であり最大の新聞であった『京城日報』だけでなく、『朝鮮新聞』や『釜山日報』に比べても微々たるものであったと思われる。
それさえも『毎日申報』は石井漠の京城公演は報道し、特に崔承喜が石井舞踊団に入団して日本舞踊留学に行くことになった事情を詳しく報じた。 おそらく姉妹紙の『京城日報』との記事共有が実現したからであろう。 しかし『毎日申報』も大邱公演は報道しなかった。
日本語の新聞(京城日報、朝鮮新聞、釜山日報)や総督府の機関紙(京城日報、毎日新報)を除く朝鮮語の民族紙は、石井漠の朝鮮巡回公演を全く報じなかった。 これは大邱や仁川、釜山公演だけでなく、京城公演も同様だった。
唯一の例外は1926年2月21日の『東亜日報』記事だった。 この記事は「日本の西洋武道家で第一人者である石井漠は今月下旬か来月上旬に朝鮮に来て京城で行う」と伝え、石井漠聰は「舞蹈の本場であるヨーロッパの人々も称賛」する舞踊家だと説明した。
淑明(スクミョン)女子学校の優等卒業生、崔承喜の石井舞踊団入団は記者たちにとって特ダネだっただろう。 そのうえ、当時、多くの民族紙記者は、崔承喜の兄、崔承一(チェ·スンイル)の同僚や先輩·後輩だった。 石井漠と崔承喜に関するニュースをいくらでも把握し、報道できる位置だった。 にもかかわらず、民族紙はこれをまったく報じなかった。 どのような特別な理由があったのだろうか。
後援社だった『京城日報』と『毎日申報』が他のメディアの取材や報道を禁止してはいないだろう。 後援社ではなかった『朝鮮新聞』の京城報道がこれを証明している。
また、記者をはじめとする若い朝鮮人、特に日本留学経験のあるインテリ朝鮮人の間では、石井漠の評判も良い方だった。 したがって、日本人舞踊家に対する民族的な感情のため、取材と報道を避けたわけでもない。 それにもかかわらず彼らは石井舞踊団の朝鮮巡回公演を全く報道しなかった。 その理由が今も気になる。 (*)