南益三氏の朝鮮内の縁故地を推定するためには埋葬認許証に記録された不完全な住所に依存しなければならなかったが、この住所でどの部分が正確でどの部分が間違っているのか判断できなかった。したがって、不正確な住所から何とか信頼できる部分を区別する方法を講じなければならなかった。
筆者はまず「道-郡-面-里-村」などの行政単位をすべて無視して地名を表す固有名詞だけを調査することにした。それで「中清」と「春元」、「連北」と「先三」という名前だけが残ることになった。また、草書体で書き流した文字のため、「春元」と似ているように見える「春六」と「連北」と似ている「蓮地」も調査に含めた。
この6つの地名を『新旧対照朝鮮全図府郡面里洞名称一覧(1916、越智唯七編纂、中央市場発行)』で調べてみた。この報告書は1914年に日帝が朝鮮の行政区域を改編した結果をまとめたもので、19世紀末と20世紀初めに朝鮮で使われた行政区域の名前を網羅していた。この報告書は本文だけで1096ページに達する膨大な分量だったが、1915年に死亡した南益三氏の住所を確認するのに時期的に適切な文献だった。
同報告書によると、20世紀初めの朝鮮全図に「中淸」と「連北」と「先三」という地域名称はなかった。 「連地」と「春六」も同じだった。 ところが「春元」という名前は追跡可能だった。
この報告書にも「春元」という名前は出てこないが、1914年以降の統営郡が過去の龍南郡と巨済郡を統合した地域であることが分かった。固城-統営地域の行政区域変遷史が多少複雑だったが、要約すれば次の通りだ。
現在の固城と統営地域は(1)三韓時代以前は辰国、三韓時代には弁韓に属していた古資彌凍國、伽耶時代には小伽倻所在地だった。 (2)南北国時代に古資郡と呼ばれていたこの地域は、新羅景徳王(在位742-765年)の時に固城郡と改称され、757年に康州(現在の晋州)に併合された。(3) 1016年(高麗顯宗9年)、この地域は巨濟縣に移管されたが、(4)1275年(高麗忠烈王2年)に南海縣に移属され、1308年(忠烈王復位10年)巨済縣に戻された。
朝鮮時代に入って(5)1604年(宣祖37年)、この地域に三道水軍統制営が設置されたが、当時の名前は巨濟縣頭竜浦だった。 (6) 1677年(肅宗3年)、頭龍浦が固城県に移属され、春元面に改称された。 (7) 1869年に固城県春元面で戸籍紛糾事件が起き、朝鮮朝廷はこれに対する事後策として1870年に固城縣を固城府に昇格した。 (8) 1880年に固城府は固城縣に還元され、1884年に再び固城府に昇格した。
(9) 1895年(高宗32年)春元面所在の三道水軍統制営が廃止され、固城府は固城郡に改称された。(10)1900年統制営が所在した地域が固城郡から独立し、別に鎭南郡になった。(11)1909年、鎭南郡は龍南郡に改称された。(12)1914年、日帝の行政区域改編の際、龍南郡は巨済郡とともに統営郡に併合された。
すなわち「統営郡(1914)」に併合された「龍南郡(1909-1914)」はその直前の名前が「鎮南郡(1900-1909)」であり、その前は約230年間「固城縣/府/郡春元面(1677-1900)」だったのだ。
1915年2月20日に死亡した南益三氏の埋葬認許証には、彼の生年月日は「不詳」としながらも、彼の死亡時の年齢が37歳だと述べた。これを逆算すれば南益三氏が生まれた年度は1870年代末だが、その当時の統営の名前は「固城府春元面」だった。
南益三氏が日本に住んでいた時、「故郷はどこか」という質問を受けたとすれば、「慶尚道固城府春元面」と答えただろう。 彼は春元で生まれ、最初の20年間をそこで暮らしたはずだからだ。
彼が20代後半に「春元」は「鎮南」に、30代前半には再び「龍南」に変わり、朝鮮を離れて日本の兵庫県から神戸水道工事に投入された頃、再び「統営」になったが、持続的に変わる故郷の公式名称に彼がどれほど馴染んでいたかは疑問だ。 (2022/8/29、趙正熙)
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