日帝が済州-大阪定期航路を開設し、「君が代丸」が済州人を大挙大阪に運んできて工業化の労働力として活用したことはすべての学者が認める歴史的事実です。 しかし、なぜ済州だったのかはまだ疑問です。
済州人が「勤勉」で「柔順」な労働力だったという風に説明する人もいますが、私は納得しにくいです。済州人は暴圧と搾取、不当な差別に対抗して戦った歴史を持っているからです。 20世紀初頭の『李在守(イ·ジェス)の反乱(1901)』は、済州人が無能で腐敗した大韓帝国王室と官僚、そしてカトリックを前面に押し出したフランス帝国に対抗して戦った事件です。
また1887年の『五座首義挙』は、日本の漁師たちが武装したまま、摹瑟浦に上陸して乱暴を働くと、両班や奴婢などの身分を問わず、摹瑟浦の住民たちが力を合わせて撃退した事件です。済州牧と中央政府は官軍も果たせなかったことを成し遂げた主導者5人に座首の位を下しました。
日本植民地時代にも済州人は独立運動に積極的に乗り出しました。 <済州独立運動と独立有功者現況(シム·オクジュ、2013)>によりますと、解放後独立有功者として褒賞された済州人が150人に達します。 彼らの活動は義兵(3人)、三一運動(19人)、文化運動(2人)、海女運動などの国内抗日運動(88人)、学生運動(19人)、光復軍(1人)、愛国啓蒙運動(1人)、日本活動(17人)などに均等に分布しています。
したがって済州人を「柔順な労働力」と卑下することは済州人の自主性と能動性を冒涜することです。 実際に済州人の団結と決意を示した事件がありました。 航路を独占した「君が代丸」が乗客の過積載と劣悪な乗船環境にもかかわらず12圓50銭の高い運賃を賦課すると、済州と大阪の済州人が「君が代丸」と競争する「伏木丸」を用意したのがそれです。
1928年4月、済州人々は「君が代丸」所有会社である尼崎汽船会社と「京成丸」所有会社である朝鮮郵船株式会社に運賃の引き下げを要請しました。 汽船会社は「鳥じゃないから飛べず、魚じゃないから泳げないのに」と嘲弄し、済州人の要求を断りました。
これに対し大阪の済州人は天王寺公会堂で済州道民大会を開き運賃引き下げと乗船環境改善を再度要求しましたが、これも拒否されました。 この時、天王寺公会堂には済州道民1千人余りが集まりましたので、日本の官憲の監視と弾圧が始まりました。
済州人たちは「私たちは私たちの船で」というスローガンを採択し、通航組合を組織して組合員を集め始めました。 1930年4月頃、大阪の済州人と済州島民4500人が1柱に30銭の組合費を出して東亜通航組合を設立し、同年秋、約6千円の資金で函館の成田商会から「蛟龍丸(3,000トン)」をレンタルし、11月1日から済州-大阪の運航を開始しました。
「蛟龍丸」は運賃を6円50銭に値下げしましたが、「君が代丸」と「京成丸」もそのため運賃を下げざるを得ませんでした。 資金が十分な尼崎汽船会社は「君が代丸」の運賃を3円まで値下げして出血競争を始めましたが、済州人は屈せず「蛟龍丸」に乗っていました。
6か月の「蛟龍丸」の賃貸契約が終わると、東亜通航組合は北日本汽船会社から「伏木丸(1,332トン)」を買い取り、運航を再開しました。 1931年12月1日、「伏木丸」の初運航乗客が334人でしたが、「ウリ船」の出港を祝うために集まった歓送客が1万人余りだったそうです。
これに弾圧が本格化しました。 官憲は「伏木丸」の販促活動を行った東亜通航組合員を「君が代丸」の営業妨害の名目で逮捕し、このうち7人が懲役1年の実刑を言い渡されています。 また、日警察は「伏木丸」の乗客に渡航証を渡さなかったり遅延させたりして乗船を妨害したりしました。
東亜通航組合は34の支部、1万人余りの組合員を維持しながら弾圧に立ち向かいましたが、弾圧と赤字累積で1933年12月1日に運航を中断しました。 朝鮮人の団結した力も、日本の権力と結託した資本に勝てなかったのです。
しかし、済州人が「柔順な労働力」であるどころか、決起のある民族民族であることを誇示できた事件であったことは間違いありません。 (*)
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