<ウリ學校舞踊靴>訪問団が大阪と宝塚を訪問する間<大阪ファイブホテル>に泊まることになります。 この宿に滞在している間、私たちは生野、鶴橋、桃谷という名前に慣れるでしょう。 このホテルが鶴橋駅から近く、生野コリアタウンに隣接しながらも、所在地の住所は桃谷二丁目だからです。
この中で生野と鶴橋という名前に注目します。 今の生野が昔の百済野と猪飼野とどんな関係があるのか、そして鶴橋という名前の由来が何で、それが猪飼野と生野とどんな関係なのか知っておく必要があるからです。
鶴橋駅と桃谷駅を結ぶ道路を境に天王寺区と生野区が分かれますが、コリアタウンは天王地区から始まり平野川まで延びています。 コリアタウンはすべて一つにつながっているわけではありませんが、3つの地区に分かれて広く分布しています。
平野川は生野コリアタウン東の川です。 今は南北にまっすぐに流れていますが、もともとは南から北に曲がりくねっていましたが、大阪城の北から大川に合流し、中之島を通って安治川に合流し、大阪湾に流れ込みます。 つまり、昔は大阪湾沖から船で生野まで上がれたということですね。
コリアタウンという言葉は1993年頃から使われる言葉で、その前は「朝鮮市場」と呼ばれていました。 在日朝鮮人の密集居住地域なので、彼らに韓国食品や衣類を提供する市場が形成されたからです。 2022年7月現在、生野区の人口は12万7千人ですが、そのうち外国人住民が2万7千人(21.6%、2021年現在)で、そのほとんどは在日朝鮮人です。
ここの朝鮮人居住の歴史は西暦4世紀までさかのぼります。 仁徳天皇(257?-399年)の時期に渡来人(=百済人)が多数ここに移住しましたが、そのためこの地域は百済野と呼ばれ、当時は平野川も百済川と呼ばれていました。
百済野に住んでいた百済人は生業として豚を飼育しました。 そのため、猪飼野は百済野と同義語になりました。 猪を飼育していた野原という意味ですが、漢字「猪」はイノシシではなく、日本で飼っていた豚とは区別される大陸産猪、つまり韓半島から持ってきた猪のことを指していたそうです。 百済人の猪飼育は盛況で、難波宮皇室に豚肉を納品する官庁で、猪飼部まで設立されたほどです。
660年、百済が滅び、その遺民が大挙猪飼野に移ってきたため、この地域の百済人の人口が大幅に増え、そのため奈良時代(710–794年)には猪飼野が百済郡に昇格しました。 しかし、奈良時代末期に百済の王家が河内(現在の枚方市周辺)に移封され、平安(794~1185年)末期には百済郡も解体されました。
一方、日本書紀には仁徳天皇14年(330年)の記録に「猪飼津に橋を架けた」という言葉が出ています。 猪飼津は大阪湾から川をさかのぼる船が停泊していた、当時としてはかなり栄えた港です。 猪甘津橋(=猪飼津橋)は百済川を架かる橋で、名前に「猪」の字が入ったのは、ここが猪を飼育していた百済人が居住していた場所だったからです。
江戸時代(1603-1867年)に猪飼津橋は鶴橋という新しい名前を持ちます。 この橋に鶴がよく飛んできて座ったからです。 今は平野川の流れが変わり、その川を横切っていた猪飼津橋=鶴橋もなくなりましたが、学者たちは鶴橋が桃谷駅と平野川の中間地点にあったと推定しています。 そこで1997年、そこに<つるのはし跡公園>が造成され、記念碑も建てられました。
しかし、他の学者たちは、猪飼津橋と鶴橋は異なる橋だと主張しています。 今日、平野川の東側に近鉄大阪線と今里筋が出会う交差点の名前が今も<猪飼野橋交差点>ですが、ここが旧猪飼津橋の場所であり、鶴橋とは別の橋だったと主張されています。 (*)
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